今日も今日とて

NHKバイト。地震が起こり、スタジオは一気に慌しくなった。報道の現場、ということを改めて認識した次第である。
今日のニュースでは、相次ぐ子どもによる親殺しを受けて「なぜ親を殺すのか」とかいう特集を組んでいた。
冒頭あたりのナレーションで

今年に入って起こった、子が親を殺す事件は17件。おととしの9件から急増しています。

というのがあったのがとても気になった。ほんまかい。恣意的な数字の取り上げ方じゃないんだろうね。ほんとに昔はそんな事件滅多になかったんだろうね。
それは置いておくとして、特集では、今まで口答えひとつできなかった子どもが突然親を殺してしまう、みたいな口ぶりで専門家がコメントしていた。今更改めて指摘するまでもなく、反抗期のない子どもは将来危ない、というような話はむかしからあったような。
ああ、本来書きたかったことから脱線している。悲しい。
ええと、私が思ったことは、殺すという形式でしか親を超(越?)えられないというのは寂しいなぁということです。
親、あるいはそれに代わるひと、というのは、子どもが幼い頃にあっては完全なる存在として捉えられ、盲目的に尊敬し追従され得る対象であるけれど、子どもが成長していくにつれその完全さは失われていく。それに気付いてか気付かずか子どもは反抗期を迎え、親に反抗することで自分の規範としての親を乗り越える取っ掛かりを掴むものなんだと思う。しかしながらその辺がうまくいかない子がいて、それは子どもが弱すぎるのか親が強すぎるのか分からないけれど、子どもは我慢するしかなくて、でも思うに完全である筈の親が完全でないことに実は気付いていてそこに我慢ならなくなって、ある日親を殺してしまうのかも知れないと思う。でもそこで殺すという手段しか思いつかないのは何とも短絡的だ。そこまで追い詰められていたのだと返されるかもしれないけど。
反抗期がないといえば、私も目立った反抗期はなかったので自分自身の行く末が怖かったりもしたが、幸か不幸か特集に採り上げられることなくここまできています。