たまにはこのカテゴリも使おう

忘れられない詩といえば。

夕焼け/吉野弘


いつものことだが
電車は満員だった。
そして
いつものことだが
若者と娘が腰をおろし
としよりが立っていた。
うつむいていた娘が立って
としよりに席をゆずった。
そそくさととしよりが座った。
礼も言わずにとしよりは次の駅で降りた。
娘は座った。
別のとしよりが娘の前に
横あいから押されてきた。
娘はうつむいた。
しかし
又立って
席を
そのとしよりにゆずった。
としよりは次の駅で礼を言って降りた。
娘は座った。
二度あることは と言う通り
別のとしよりが娘の前に
押し出された。
可哀想に
娘はうつむいて
そして今度は席を立たなかった。
次の駅も
次の駅も
下唇をキュッっと噛んで
身体をこわばらせてー。
僕は電車を降りた。
固くなってうつむいて
娘はどこまで行っただろう。
やさしい心の持ち主は
いつでもどこでも
われにもあらず受難者となる。
何故って
やさしい心の持ち主は
他人のつらさを自分のつらさのように
感じるから。
やさしい心に責められながら
娘はどこまでゆけるだろう。
下唇を噛んで
つらい気持ちで
美しい夕焼けも見ないで。

吉野弘といえばこの「夕焼け」か「I was born.」が有名だろう。「夕焼け」は中学のときに国語でやった。うちの中学校の名物だった先生が癖のある解釈をしていた。どういうのだったか忘れちゃったけど納得しかねた覚えがある。一体ぜんたい吉野弘はこの詩で何が言いたかったのか、いまでもはっきりとはわかんないな。「他人のつらさ」というのは「としより」のつらさでいいのだろうか。ではこの作品中のどの「としより」のつらさなのだろうか。そしてそのつらさというのは、席を譲ってもらえないつらさなのか、はたまた席を譲られるつらさなのか……多分論点はこのあたりだと思うが。
こんな詩もやった。

木琴/金井直


妹よ 
今夜は雨が降っていて 
お前の木琴がきけない 


お前はいつも大事に木琴をかかえて 
学校へ通っていたね 
暗い家の中でもお前は 
木琴といっしょにうたっていたね 
そしてよくこう言ったね 
「早く街に赤や青や黄色の電灯がつくといいな」


あんなにいやがっていた戦争が 
お前と木琴を焼いてしまった 


妹よ
お前が地上で木琴を鳴らさなくなり 
星の中で鳴らし始めてからまもなく 
街は明るくなったのだよ 


私のほかに誰も知らないけれど 
妹よ
今夜は雨が降っていて 
お前の木琴がきけない  

これも「普通そう読まないだろ」って解釈を先生がしていたような気がする。何て言ってたのかなぁ……あの頃のノートが見たい。問題は、確か、「どうして雨が降っていると木琴がきけないのか」という点にある。「妹が死んだ=星空にいる、という比喩を受けて、雨が降ると星が見えなくなるから」と答えたら「違う」と言われた。国語に正解も間違いもないだろと思われるだろうが、そういう方針の先生だったのだ。感覚に頼るのではなく、論理的に読解したら正解は自ずと決まる、見たいな感じ。鍛えられたものだ。
ちなみに今少しネットで検索していたら、戦争文学では「雨が降る」が「爆弾*1が落とされる」の比喩表現として用いられることを知った。
追記:あ、もうひとつ問題を思い出した。「私のほかに誰も知らないけれど」の真意とは。