ありがとう

以心伝心というが、半分嘘で半分本当だと思う。
本当に伝えたいことは、きちんと言葉にしないと、案外伝わらないものだ。その反面、できれば伝えたくないような不安や疑念といった負の感情は、言葉にせずとも伝わってしまうものらしい。100%伝えていたからといって、この結果は揺るがなかったかも知れないけれど。時間を戻せるものなら戻したい。でも、いつまで戻せばいいのかわからない。今日のことにしても、ついつい聞かない方がよかったようなことまで聞いてしまって後悔している。どいつもこいつもそんなことばかり言いやがって―図らずも笑ってしまった。笑うほかあるまい。それにしても、実際、始終滑稽な姿だったと思う。まるで赤ちゃんがえりしたかのような振る舞い。でも、人間は、いちばん弱いところをこすり合わせて快感を得るという滑稽で愚直な生き物なのだ。その意味においては、滑稽な姿を晒しあえて、しあわせな結末であったのかも知れない。そう、結末。ものごとには始まりもあれば終わりもある。終わりがなければ始まらないし、恒久的な契約を交わしていたわけでもないのだから終わりがくるのは当たり前だ。加えて、感情は絶対に義務ではないのだから尚のこと。ぬるま湯から抜け出すつらい役目を負ってくれて、でもずっとあったかいお湯でいてくれて、ありがとう。
以前も一度このブログで引用したことがあるが、江國香織のある短編にこんな一節がある。

食べることと生きることとの、区別がようつかんようになったのだ。

これは認知症っぽいおじいちゃんの独白である。人間生きることは即ち、混沌とした世界に秩序という区別の枠組みを与えていくことである、というのは高校現代文の常識でありますが(たぶんね)*1、その常識に照らし合わせると、このおじいちゃんは「生きる」こと自体の能力が低下しているということになる。しかし、私だってどの程度、的確な区別をしながら生きているというのか。何が違うのと訊かれて、適切なリアクションをすることができたか? はっきり言って答えは否である。区別って、生きることって実に難しい。世の中は、なぜかうまく噛み合わないようにできている。そう考えると、2年間は素敵な奇跡だったのかも知れない。ありがとう。

*1:あ、生きることではなくて言語活動か。まいっか