回復の途

月曜日に,ちょっと取り乱しました。
たぶん上京してからの4年と3ヶ月の間でいちばん,親に心配を掛けたことと思う。自分ではストレス耐性のあるほうだと思っているけれど,換言すればストレスに対して鈍いということになるのかもしれないと初めて気づいた。実際このところ胃腸が弱っているようで,それはただの夏バテ的な症状であるのかも知れないのだけれど,今日それを上司にちらっと言ったら,「君みたいな肝すわってそうなひとが……意外と繊細なのね(笑)」と返された。職場での朝礼の司会を新人がやっているのだが,私はそこでの声のでかさ*1になぜか定評があり,あんなでかい声で司会できる人がテストごときでストレス感じないだろうというロジックだった。No more 飛躍!!
母と電話していて,高校の答辞のことを思い出した。意外と自分という人間の根っこの部分は変わっていないようで,驚いた。

厳しい寒さもようやく緩み、やわらかな風や暖かな陽ざしに春を感じられる季節となりました。春は新しいはじまりの季節です。どんなに小さな生き物も、長い冬を経て今、みずみずしい力に溢れています。そんな春の息吹をそこかしこに感じとり、私にも、何か新しい力が湧いてくるような気がします。
先生方、来賓の皆様、そして在校生の皆さん、今日は私たち卒業生のためにこのような素晴らしい式を開いてくださり、ありがとうございます。この春の陽ざしのように暖かな祝福の言葉の数々に対して、お別れの言葉を申し上げ、心からの感謝を伝えたいと思います。
私の三年間を一言で言い表すならば、まさに「あっという間」という言葉がぴったり当てはまります。息つく暇もなく、と言うと大げさかも知れないけれど、勉強に、部活に、三年間を一気に駆け抜けてきました。そのあまりのスピードの速さのせいなのでしょうか―卒業式を迎えた今もなお、慣れ親しんだ朝日に別れを告げることに実感が伴わないのです。しかし、今日は確かに卒業式であり、今日を境に私は朝日高生ではなくなります。では、二度と戻ることのできないこの朝日というフィールドで、私は何を得、何を残すことができたのだろうか。そう考えた時、一年生の時に書いた、朝日祭の弁論大会での原稿を見つけました。タイトルは「中途半端は零と同じ」。そこには、吹奏楽部が好きで好きでたまらない、まっすぐな十五歳の私がいました。
十五歳の私。それは希望とエネルギーに満ち溢れた、一人の子どもであったと思います。文字通りの「中途半端は零と同じ」を体現しようと、毎日を必死に歩いていました。それでも、大好きな部活は苦にならなかったし、本気になればできないことはないと、人間の無限の可能性を純粋に信じていました。そんな姿は、十八歳になった私の目には少々眩しく感じられます。
そこから現在に至るまでに、挫折や葛藤を味わいました。二年生になり、部では副部長を任されましたが、好きだからこそ続けられると思う一方で、好きなだけではどうしようもないこともあると知りました。部活と勉強を両立させている友人を見ては、自分の弱さやふがいなさに無性に腹が立ちました。受験勉強が始まると、本気になってもうまくいくことばかりではなく、自分だけが周囲から置いていかれたように思え、不安で仕方ない時もありました。
そして今、十八歳の私は思います。中途半端を零とみなして切り捨てて、完全を追い求めるのは、一つの理想形です。でも、人間はいつも理想形でいられる訳ではない。誰だって弱さを持っているし、たとえ中途半端であろうともやらなければならない時もある。最初から理想を捨ててしまうのは人生に対して逃げ腰でしかないと思うけれど、現実に直面して理想とのギャップに苦しむ自分や他人のそのままの姿を、十八歳の私は、受容できるようになった気がします。このことは、私が一歩大人に近づいた証だと思うのです。
大人になるということには、子どもの頃の生命力を部分的に失ってしまうという一面もあるかも知れません。しかし、挫折や失望を経験して、広い視野と包容力を身につけることこそ、本当に大人になるということだと思います。そして私は、この朝日高校という場所で、愛すべき仲間たちと信頼すべき先生方に囲まれて、悩み、考え、少しずつ大人に近づけて、幸せだったと思います。
二年生の夏のことですが、私は「永遠の出口」という小説を読みました。永遠の出口とは、永遠に対して恐れにも似た憧れを抱いていた主人公の女の子が、成長し、その恐れを捨て、大人に近づくことの象徴です。私はそれと同時に、永遠の出口とは、永遠に戻ることのできない決断の扉でもあると考えました。そんな扉を前にして、恐怖を微塵も感じない者が、果たしているのでしょうか。
今、私は思います。今日の卒業式は、まさにこの永遠の出口なのです。私は目の前にそびえ立つ巨大な扉に恐怖感を抱き、卒業の実感から逃げているだけだったのです。しかし、そんな私を支えてくれるものがあります。それは、現在私が立つ場所に確かに続く、私の足跡です。時には立ち止まり、時には回り道した跡が見えます。それでも、私自身が日々小さな決断を積み重ね、必死に自分で歩いてきた証拠に他なりません。そして、その隣にはいつも朝日の仲間たちがいたことを、私は誇りに思います。
今日、私たちはまた一つ、永遠の出口を通り抜けます。朝日高校という居心地のよい古巣から、未知の新世界へと繋がる、一つの扉を開けるのです。それぞれが選択して歩み出す道は違うけれど、思わず足がすくんでしまった時も、私たちが共に歩んだ三年間の道のりが、きっと支えとなってくれるはずです。
今、私は誓います。急がなくてもいい、立ち止まってもいい。しかし、私はどんな時も自分の足で、今日までの道のりに続く新たな道のりを、しっかりと歩んでいくことを。
平成十七年三月二日
卒業生代表 C-me

*1:さすが楽器をやっていた人は呼吸法がなっている・腹から声を出すことを理解している,と解釈された。たぶんあんまり関係ないような気がした