電車の中

電車に乗ったら、何をしますか。本を読む? 音楽を聞く? 睡眠補充? 私は人間観察を中心に活動している。したがって、たとえ手ぶらで電車に乗ったとしても、何も困ることなどないし、暇を持て余すことなどない。むしろ、人間観察に加えて車内広告を読んだり車窓を眺めたりもしているので、本を読む暇もないほどである。
人間観察をしていて気になるのは、やはり、ひとびとが手にしている本の中身であろう。カバーをかけているひとが多いので、本のサイズや厚さ、本人の印象から推測してみる。あるいはカバー越しに題名の一文字でも見えないかと目を凝らしてみる。しかしどうしてみんな、揃いも揃ってカバーをかけるのだ。私は『快楽電流』であっても『感じない男』であってもそのまま読んでいたぞ。というか、カバーをかけていようが、例えば隣に座ってしまえば否が応でも*1ページの中身が目に入るのである。あるいは、自分が立っているとき、正面に座っているひとの本の中身は容易に見ることができる。
今日バイト帰りの山手線で、悔しいことに立ち位置を誤って池袋まで座ることができずに*2立っていたのだが、禍転じて福となすとでも言おうか、私の真正面に座っていた女性が何か雑誌を読んでいたのである。ちらちらと入手した情報から総合的に判断した結果、彼女が読んでいたのは夜のお仕事系の求人情報誌であった。彼女自身は一見したところ全く派手なところのないタイプだったので、それが私の偏見でしかないとは言えギャップに驚き、また勝手な妄想に浸ってしまった。
妄想を終えて思ったのは、電車の中で読むものとしては本よりも雑誌にそのパーソナリティが現れるのではないかということである。当たり前といえば当たり前で、雑誌というのはその対象とする読者層を予め設定した上で作られているのだから。でも一般書籍にだって、程度の差はあれそのようなターゲットはあるはずなのに、雑誌ほどのはずかしさは伴わない(気がする)。それは、雑誌のもつメッセージの方が即物性が強く、そのひとの興味や思考内容がストレートに投影されているからではないだろうか。ということは、私は電車の中でユリイカダヴィンチの当該号を読むことだけは差し控えておいた方がよさそうである。たとえ純情△△△△△を読んでいようとも。

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ちょっと思うところあって、起承転結のある文章を意図的に書いてみようと思ったのだが、全然面白くない上に、自分のきもちわるさを前面に押し出す結果となってしまった。最近自分のきもちわるさを認識する機会が多く、そのあたりに関して心を開ける(というか開いてもよい)相手は限られているのだとようやく気づいたのだが。これじゃきもちわるいアピールがしたかっただけみたい。違うんです。アウトプットの練習をしようと思っていたんです。

*1:言い訳?

*2:いつもは新宿で席をゲットします