自転車乗りのララバイ

中高6年間と自転車通学を続け、上京して以来しばらくご無沙汰していたが、今年の春に引っ越して再び自転車通学を始めた。自転車だいすき。こんなにエコで、さらに自分の頑張り次第でタイムを如何様にも縮められる優れた乗り物はない、と常々思っている。自分のタイムロスは自分(の足)で取り返す、を信条にこれからも頑張っていきたいと思う。
さて、自転車に乗りながら音楽を聞くのは私は好きではない。なぜなら怖いからである。自転車という無防備な乗り物を利用している以上、五感はフルに活用しておきたい。その意味において、耳から入ってくる情報は特に大切だ。視野の途切れる自分の背後や死角で何が起こっているか、たとえば車が近づいていることなど、教えてくれるのだから。そういうわけで、個人的には自転車に乗るときは音楽を聞かないことをおすすめしたい。それに、音楽なら聞くまでもなく、自分で歌っているから充分だ。私はほぼ常に、自転車に乗りながら歌やらオケでやっている曲やらを歌っている。しかも、自転車の誇るスピード性をいいことに、かなり大きな声で。
それでも、向こうからやってくるひととすれちがったり、あるいは追い抜かしたりする場合は、さすがに歌うのをやめる。既に歌声がそのひとの耳に届いていて気づかれているとすれば無意味なのだが、それでも最接近するその瞬間に「あいつ歌ってるぜ」というのを悟られるのははずかしいものがある。
ところが最近、私が歩いているときにすれちがう自転車乗りに多いのが、私とすれちがう瞬間も歌うのをやめないタイプのひとである。私は最初、大変驚いた。すれちがうときだけは誰しも歌うのを憚るものだと思っていた。それが彼らは、実に堂々と歌うのだ。しかもなぜか、腹から声を出して歌う、正統派のひとが多い。昨日雨が降っていたときにすれちがったひとは、傘でわずかばかり顔を隠しつつも大声で歌い続けていた。いや、いくら傘で隠したって、歌ってるのあなたしかいませんって。あなただって分かってますって。彼にはそう伝えたかったが、自転車の彼は坂道を下り去っていってしまった。
彼らははずかしさを感じないのだろうか。私の存在など意に介していないのだろうか。上京して驚いたことのひとつに、公共空間におけるひとびとの「我関せず」の態度があるけれど、これもその事例のひとつとして考えてよいのだろうか。そう思いながら私は、今日は『こどものサーカス』を歌いながら自転車で帰宅した。