執行部のメーリスに思う

政治的なことを書くのは好ましくないのかも知れないけれど。

音楽教室を開催するために尽力してくださっている方がたくさんいるということを、良く考え直しておいてください。

音楽教室はボランティアだ、と言っているひとを目にしたことがある。確かに無償という意味ではそうかも知れない。しかしより正確に言えば、音楽教室は押しつけという名のボランティア、ボランティアという名の押しつけである、と少なくとも私は音教外務をやって思うようになった。
T大オケにおいて、どのような経緯で音楽教室を行うようになったのか寡聞にして知らないのだが、現状としては、「これこれこういう企画をそちらの学校でやらせていただけませんか」とお願いして開催校を確保している。もちろん、こちらとしてはその学校でやりたいと思うそれなりの理由があり、例えば昨年の私の場合、母校でやる夢は叶わなかったけれど地元の子どもたちに普段触れる機会の少ない生オケを是非見てもらいたいと思ってお願いした。でもそれとこれとはまた別問題というか、開催校には本当にいろいろと協力していただいて、初めて音楽教室の開催に漕ぎつけるのだ。演奏会場として体育館を貸してもらうことだってそうだし、充分な控え室だって自然に出現するわけじゃあるまいし。使わせていただけますか、そうお願いして、学校側がご好意で使わせて下さっているのである。そもそも休日に学校を開放し、児童を登校させるということ自体、難しかったりする今のご時勢なのだ。
ここまでの打ち合わせ段階だと、学校側としては、なんだかたくさん無理を聞かされて面倒なことになって……と思われても当然ではないかと思う。昨年私はこの打ち合わせ段階で、要求に要求を重ねるメールを書きながら「押しつけボランティアだなぁ」と軽く自己嫌悪を覚えた。その押しつけボランティアを真の意味での*1ボランティアに変えられるのは、音楽教室当日、団員ひとりひとりのパフォーマンス以外にない。その水準が低ければ、音楽教室ははた迷惑な押しつけボランティアのままに終わってしまうだろう。それなら音教をやる意義って何なのだろうと思ってしまう。
私自身音教外務をやって裏側を知ることがなければこうは思わなかっただろうし、それも無理はないとは思う。明日の音教が少しでもよいものになればと願う年寄りの独り言でした。そもそも、若者でこのブログを読んでいるひとは非常に少ないであろう。

*1:そんなものがあればの話だけれど