ことばの優劣

法学部の友人の写真を見て、そこに写っていたホワイトボードに書かれた文字の意味がまったくわからなかった。同じ日本語とは言えど、そうやってひとくくりにしてしまうのは乱暴に過ぎるというものだ。これは「法学のことば」だ。
言い古されたことだが、ことばというものは、世の中を見る方法であり、解釈の手法だ。みんな同じものを見ているようでも、ことばの数だけ見え方がある。さらにそもそも、人というものがひとりひとり、感じ方や考え方の癖、志向が違うのだとすれば、世界の解釈や意味づけというものは《人の数×ことばの数》ぶん、実に膨大な数だけ存在することになる。
私は、私の知らない法学のことばを操る友人のことをうらやましく思った。しかし、私は、ひょっとしたら彼女は知らないかも知れない社会学のことばを知っている(はず)。ことばの数だけ、ものの見方のバリエーションが増える。同じものも、違った側面から見ることができたり、新しい意味づけをすることができたりする。その意味で、大学時代の特に最初の二年間、不毛とも思えた教養学部で過ごすことができて実に恵まれていたと思う。それぞれの学問の入り口をちょこちょこっと覗いて帰ってきた、それぐらいの体験だったけれど、少なくとも「色々なことばが存在すること」だけは実体験として知ることができた。
先にも書いたが、私は法学のことばとか経済学のことばとかの知識がある人のことを結構うらやましく思う。自分にそういった実学系の知識が欠落しているからだ。でもそれは、必要なことばならこれから学んでいけばいいと思う*1し、知らないことを学ぼうとする姿勢を失いたくないと思う。自分にとってどのことばが意義深いと思うか、その判断基準は人それぞれだ。だからこそ世の中が成り立っているとも言えよう。自分が大事だと思うことばだけを他人にも強制する、そんな横暴なまねだけはしたくないし、誰にもしてほしくない。もちろん、もうちょっとみんな一歩ひいて構築主義的にメディアの言説を見ればいいのになーそうすればマスコミに踊らされることも減るだろうに、とか思わなくもないけどね。自分の知っていることばは便利だと思うものだろうし、なんだかえらい気がしちゃうかも知れないしね。でも、もし仮に私が社会学のことばしか知らないままこのまま生きていくとすれば、それこそ「社会を知らない社会学者」状態になってしまうだろう。

*1:4月からは悠長なことは言ってられません!