共感覚的コラボレーション
妹に「最近文化的活動に勤しんでるね、どしたの」と言われたが、何のことはない。ただの現実逃避である。
曰く、純文学と視覚芸術・メディアアートとの接点に焦点をあてた文学作家+メディアアーティストのコラボレーション。まず最初に、DSの文学全集が展示してあった*1のに面喰ったが、考えてみれば確かに21世紀の文学の第一歩とでもいうべき商品かも知れない。
本来的には「文学の触覚」は成り立ち得ない。文学とは触ることのできないものである。触覚はおろか、実際には(少なくとも旧来の文学は)視覚にさえ訴えてはいないのだ、という当たり前のことを改めて思い知らされた。文学は、文字から読み取る情報、そしてそれが読者の中でいかに再構築されるか、そこにすべてがある。そのような文学の地平に対して、例えば舞城王太郎+dividual《タイプトレース道:舞城王太郎之巻》*2では、謎の作家舞城の思考の過程が可視化され、再生される。国語の時間でおなじみの質問「作者の込めた意図は?」の意味合いもまた、変わってくるように思われる。あるいは森野和馬《谷崎リズム》では、聴覚がクローズアップされる。あいうえお五十音それぞれに音やリズムを割り振り、谷崎潤一郎『陰翳礼賛』の朗読が連続する音の集積に変わる。何の規則性もなさそうに思われるが、そのうち“音楽”に聞こえてくる。色々な作者ごとに○○リズムをやったら相当面白いだろうと思った。森野さんやってくれないかな。文学者じゃないからそれはお仕事じゃないか。
そのほか印象的だったのは、穂村弘の短歌《「火よ、さわれるの」》*3と森村泰昌《なにものかへのレクイエム(MISHIMA)》。一推しは群を抜いて《谷崎リズム》でした。でも、使われていた谷崎作品そのものについては、よく女のことだけについてあれだけだらだらだらだら語れるなぁと。陰翳礼賛といいながらあれはその実、女性*4礼賛であろう。古今東西、男性芸術家たち*5の心をとらえて離さなかった究極の存在は結局、女性だったということか。
おすすめなのですが、なにぶん、明日までの開催だそうで。ちなみに、明日は東京マラソン開催を記念して無料らしい。あんまり関係ない気もするけどね。