“この20年で失われたもの”

今日の朝日新聞朝刊文化面に、大塚英志が『この20年で失われたもの―宮崎勤死刑囚の刑執行に寄せて』と題する記事を書いている。さすが大塚英志、さすが元祖「おたく」*1。昨日私が佐木氏のコメントに感じた違和感がはっきりと、より説得力をもって言語化されていた。長くなるけれど(いいのかな)引用する。

〔…〕若者たちの犯罪をめぐって、その時々の若者たちが加害者となった若者と自分たちを重ねあわせ、自分たちの問題としてそれを引き受ける姿を見てきた。だから、物書きになった以上、そういう順番*2がやってきたのだ、とぼくは受け止めた。
自分たちの問題として、というのはしかし、ただ自分たちの世代に限定的な問題としてではない。少し前、秋葉原の事件の報道において一部のニュースのコメントなどでぼくは久しぶりに「社会の責任」としてこの事件を受け止めるべきだという声を聞いた気がする。この20年で失われたものがあったとすれば不幸な出来事を自分たちの問題として受け止めていく「社会」という責任主体のあり方だ。

この大塚の主張に対し、昨日の佐木コメントは、同時代に生きる者として共に考える姿勢そのものを放棄し、問題の所在を家庭という閉じた関係性の中に封じ込めることで、かりそめの安全地帯に逃げ込んでいるようにしか見えなかった。
秋葉原の事件は、容疑者が派遣社員であったことから、その背景に若年層の非正規雇用という社会的問題が見てとりやすい。非正規雇用をめぐる様々な問題がかなり継続的にメディアで取り上げられていたから、「社会の責任」論が生まれやすかったのだろう。ただ、それだけでなく、日本社会に蔓延する恋愛資本主義とか、内向的「自分探し」がとまらない現代の若者の一種自意識過剰なメンタリティ、それをつくりだすひとつの原因となった個性化教育とか、他にもいろいろと社会的ファクターはあると思うけれど。社会に原因があるから犯人は悪くない、なんて言うつもりはさらさらないが、彼を特殊な存在に仕立て上げるだけで安堵してこの事件を片付ける、などというのは実際には何の気休めにもなるまい。
というようなことを延々と話したゼミ終了後の研究室。昨日の新聞には石原都知事のぶら下がりかなんかの記事が載っていたが、「行政として事件を未然に防ぐ方法は」の問いに「そんなもんあるわけないだろ」みたいな感じで一喝していた。そりゃそうだろとも思ったが、たぶん行政にもできることはあって、五輪招致にお金を使うぐらいなら、すべての中学校か高校ぐらいに小谷野敦もてない男』と本田透萌える男』を寄付し、映画『童貞。をプロデュース』の上映会を行えば少なくとも今回の事件は起きなかったのではないだろうかという話になった。

*1:ここではあまり関係ないか^^;ポイントはひらがなであるところ

*2:引用者註:大塚は宮崎事件に際し、「おたく」文化が原因だというメディアに対して加害者側に立って考えることを選び、一審では弁護側証人も務めた