so sweet, so bitter

彼女と別れた後,今日が水曜日であることを思い出したので,連休最後は映画で締め括ることにした。

谷東急にて。チャリ圏内に映画館がたくさんあって非常に嬉しい。
想像以上にユーモアに溢れる映画だった。中盤までは,劇場内はしばしば笑いに包まれた。一番おもしろおかしく感じたのは,イーストウッド演じるウォルトの怒りのボルテージが上がっていくとき,BGMとしてスネアドラムの音が入ることである。うまく言えないのだけれど,軍楽隊を彷彿とさせるようなリズム。スネアのみ。孤独な老人の偏狭な怒りが,どこか寂しくどこか滑稽なものとして描かれているような気がした。
そんな前半戦から打って変わってシリアスな物語終盤まで,観る者を一瞬も飽きさせることなく引き込んでしまう,そういう作り方がすごくうまいと思う(えらそうだけど)。そして,そういうシリアスな展開を選ぶことで,ある老人と少年の心温まる物語,というミクロな視点のみならず,現代のアメリカが抱える社会問題というマクロな視点をも伝えているのだという気がした。単なるハートウォーミングストーリーに終わらない/終わらせないという意味で,たぶん予告を見て予想するよりもはるかに社会派な映画になっていると思います。面白かった。
隣家に住むタオ少年の姉が,すごく賢くて明るくてチャーミングだったのも心に残った。そして,どうしてDQNのやることは万国共通なんだと不思議に思った。あいつら映画の中でいったい何回F**Kと言っただろうか。

おまけ:チェンジリング

リアルな感想はもう既に忘れつつあるが,とにかく救いようのない暗さに満ちていたなという印象。見終わるとぐったり疲れるような重い暗い映画が好きな私だが,それでもさすがにこれは堪えた。
どうしてそれほどまでに堪えたのかというと,この映画が「わたしはわたしである」というアイデンティティを揺るがすストーリーだからだと思う。「わたしはわたしである」「あなたはあなたという人間である」ではその根拠は? そう問われたとき,近しければ近しいほど,その証明は困難であるのかも知れない。これってものすごく恐ろしいことではないだろうか。
ストーリーのもうひとつの核は,権力や権威といったものではないかと思った。強固かと思われたアイデンティティも,強大な権力の前では脆くも崩れ去る。リベラルな民衆による運動かと思いきや,彼らを正当化し突き動かすに至ったのは結局権威ではなかったか*1。権謀術数おそろしす(なんか違う)。
物語の終わり方,一縷の希望を残したのだという解釈もあるだろうが,私は考え得る限り最も絶望的なエンディングであるように感じられた。信じるものがあれば人生は救われる,そう言うこともできるとは思うが,しかし,彼女は本当に救われたと言えるのだろうか? 彼女の残りの人生がどう営まれていくのかと思うと,彼女の肩をたたいてこちらを振り向かせ,走り出してしまうのを何とか抑えたいような,そんなやるせない気分になった。

*1:細かい理屈づけは忘れたけど,なんかそう思った